2024/10/28
EUの競争力強化に向けた処方箋 - ドラギレポートの核心
1. 危機感から生まれたレポート
欧州連合(EU)は今、岐路に立っています。高齢化による労働力人口の減少、米中との技術競争の激化、ロシアのウクライナ侵攻を契機とした地政学リスクの顕在化など、複数の構造的な課題が同時に押し寄せています。こうした状況下で2024年9月、EUの競争力強化に向けた包括的な提言「The future of European competitiveness(欧州競争力の未来)」、通称「ドラギレポート」が公表されました。
元欧州中央銀行(ECB)総裁で元イタリア首相のマリオ・ドラギ氏を中心とする専門家グループがまとめたこのレポートは、単なる現状分析にとどまりません。むしろその本質は、EUが直面する実存的な危機(existential challenge)への警鐘であり、抜本的な改革への処方箋です。
なぜ「実存的な危機」なのか
レポートは次のように指摘しています。EUの根本的な価値は、「繁栄、公平、自由、平和、民主主義を持続可能な環境の中で実現すること」にあります。しかし、現在の成長率の低下傾向が続けば、これらの価値のいずれかを諦めざるを得なくなります。例えば、気候変動対策と経済成長の両立を断念するか、社会保障制度の維持を諦めるか、といった苦渋の選択を迫られる可能性があります。
数字が示す厳しい現実
実態を示す数字は厳しいものとなっています。EUと米国のGDPギャップは2002年から2023年の間に15%から30%へと拡大しました。一人当たりの実質可処分所得を見ても、2000年以降の伸び率では米国がEUの約2倍のペースで増加しています。さらに深刻なのは人口動態です。2040年までにEUの労働力人口は毎年約200万人ずつ減少すると予測されています。このまま現在の生産性成長率0.7%が続けば、2050年までのGDP成長率はゼロに近づくことになります。この状況では、デジタル化や脱炭素化、防衛力強化といった新たな投資需要に対応することは困難です。
2. デジタル革命で後れを取る欧州
EUが直面する最も深刻な課題の一つが、デジタル革命における出遅れです。
デジタル競争力の現状
デジタル分野における欧州の地位は極めて厳しい状況にあります。世界の時価総額上位50社を見ると、欧州企業はわずか4社しか含まれていません。さらに象徴的なのは、過去50年間に創業され時価総額1,000億ユーロを超えるまでに成長したEU企業が一社も存在しないという事実です。これは米国と対照的であり、米国では時価総額1兆ユーロを超える6社が全てこの期間に創業されています。
拡大する技術格差
この技術格差は更に拡大の一途を辿っています。2013年から2023年の間に、EUのグローバルテクノロジー収益シェアは22%から18%へと低下する一方、米国のシェアは30%から38%へと上昇しています。AI分野における差は特に顕著で、2017年以降に開発された基盤モデルの約70%が米国で生まれています。クラウド市場においても、米国の3大テック企業が世界市場の65%以上を占める一方、最大の欧州事業者のシェアはわずか2%に過ぎないという状況です。
構造的な問題点
この状況をもたらした原因として、レポートは三つの構造的な問題を指摘しています。
第一に、イノベーションから商業化までのパイプラインの弱さです。欧州の大学や研究機関が登録した特許発明のうち、商業化されているのは約3分の1に過ぎません。研究者と投資家、大企業を結ぶイノベーション「クラスター」が十分に発達していないことが、この低い商業化率の背景にあります。
第二に、規制環境の複雑さが挙げられます。EUには約100のテクノロジー関連法と270以上の規制当局が存在し、これらが若い革新的な企業の成長を阻害しています。特にデータの保存や処理に関する制限は、AIモデルの学習に必要な大規模なデータセット構築を困難にしています。
第三に、単一市場の分断が大きな障壁となっています。各国の規制や要件の違いにより、EU域内でのビジネス展開にかかるコストが高くなっています。その結果として、2008年から2021年の間に、欧州で設立された時価総額10億ドル以上のスタートアップ(ユニコーン)147社のうち、40社が本社を国外、主に米国に移転するという事態が生じています。
3. エネルギー転換の課題と機会
深刻化するエネルギーコスト問題
EUの競争力を脅かすもう一つの重大な課題が、エネルギーコストの高騰です。現在、欧州企業は米国と比較して電力価格で2-3倍、天然ガス価格では4-5倍という高いコストに直面しています。欧州委員会の試算によると、この高エネルギーコストは潜在成長率を押し下げる要因となっています。
特に深刻な影響を受けているのがエネルギー集約型産業です。2021年以降、これらの産業の生産は10-15%減少し、エネルギーコストの低い国からの輸入が増加しています。企業の投資意欲も大きく低下しており、約半数の欧州企業がエネルギーコストを主要な投資の障害として挙げています。この比率は米国企業と比べて30ポイントも高い水準です。
デジタル化への影響
エネルギーコストの問題は、デジタル化の進展にも深刻な影響を及ぼす可能性があります。AIモデルの学習や運用、データセンターの維持には大量の電力が必要となるためです。現在、データセンターはEUの電力需要の2.7%を占めていますが、2030年までにその消費量は28%増加すると予測されています。この状況は、EUのデジタル競争力に更なる制約を課す可能性があります。
野心的な脱炭素目標
EUは世界で最も野心的な脱炭素目標を掲げています。2030年までに温室効果ガス排出を1990年比で少なくとも55%削減するという法的拘束力のある目標を設定していますが、これは他の主要経済圏と比べても特に厳しい水準です。米国は2005年比で50-52%削減という非拘束的な目標を掲げ、中国は今後10年で排出量のピークアウトを目指すとしているに過ぎません。
このような目標の違いは、EU企業に追加的な短期コストを強いることになります。4大エネルギー集約型産業(化学、基礎金属、非金属鉱物、製紙)では、今後15年間で約5,000億ユーロの脱炭素投資が必要とされています。また、海運や航空など、脱炭素化が特に困難な運輸部門では、2031年から2050年まで毎年約1,000億ユーロの投資が必要となる見込みです。
機会としての脱炭素化
しかし、この課題は同時に大きな機会も提供しています。EUは再生可能エネルギーやクリーンテクノロジーの分野で既に強みを持っています。2023年時点で、EUの最終エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの割合は約22%となっており、これは中国の14%、米国の9%を大きく上回っています。また、世界のクリーンテクノロジーの5分の1以上がEUで開発されており、この分野での技術的優位性は明確です。
中国との競争激化
しかしながら、この優位性も脅かされつつあります。特に中国の台頭が著しく、同国は強力な産業政策と補助金、急速なイノベーション、原材料の管理、大陸規模での生産能力を組み合わせた戦略を展開しています。その結果、EUの対中貿易収支は急速に悪化しており、特に電気自動車、バッテリー、太陽光パネルといった分野での輸入が増加しています。
4. 経済安全保障とサプライチェーンの脆弱性
対外依存の現状
地政学的リスクの高まりは、EUの経済安全保障上の脆弱性を浮き彫りにしています。現在、EUの輸入の約40%は代替が困難な少数のサプライヤーに依存しており、そのうち約半分は戦略的に利害が一致しない国々からの輸入となっています。このような状況は、EUの経済的自律性に大きな課題を投げかけています。
重要原材料(CRMs)問題
特に深刻な問題として浮上しているのが重要原材料への依存です。クリーンエネルギー技術の普及に伴い、これらの需要は急激に増加しています。2017年から2022年の間に、リチウムの世界需要は3倍に拡大し、コバルトは70%、ニッケルは40%の需要増を記録しています。国際エネルギー機関(IEA)の予測によれば、クリーンエネルギー技術向けの鉱物需要は2040年までに4-6倍に増加するとされています。
中国への依存度
これらの重要原材料の供給は少数の国に集中しており、特に加工・精製については中国が圧倒的な市場支配力を持っています。ニッケル、銅、リチウム、コバルトの加工において、中国は35-70%のシェアを占めています。さらに懸念されるのは、中国からの輸出規制が2009年から2020年の間に9倍に増加していることです。この状況は、供給の安定性に対する重大なリスク要因となっています。
デジタル技術の依存
デジタル技術分野における依存度も深刻な水準に達しています。EUはデジタル製品、サービス、インフラ、知的財産の80%以上を外国に依存している状況です。特に半導体分野では、EUはウェハー製造能力の75-90%をアジアに依存しています。AIの分野においても、最先端のプロセッサの大部分を米国の1社に依存するという状況が生じています。
防衛産業の課題
防衛産業における脆弱性も明らかになっています。EUは世界第2位の軍事支出主体でありながら、その支出規模は防衛産業の能力強化に十分には結びついていません。欧州の防衛産業は過度に分断されており、規模の経済を活かせていない状況です。具体例として、EUでは12種類の戦車が運用されているのに対し、米国では1種類のみという違いがあります。この分断は、装備の標準化と相互運用性を妨げ、EUの総合的な防衛力を弱める要因となっています。
2024年6月の欧州委員会の試算では、今後10年間で約5,000億ユーロの追加的な防衛投資が必要とされています。この投資は、失われた能力の回復や、ウクライナ支援で枯渇した在庫の補充にも不可欠とされています。
5. 改革への処方箋
これらの課題に対し、ドラギレポートは包括的な改革案を提示しています。その核心は、個別の政策対応ではなく、全ての政策を統合的に推進する必要性にあります。
イノベーションエコシステムの再構築
EU研究開発プログラムの改革
欧州の研究開発体制を抜本的に見直す必要があります。具体的には、予算を現在の2倍となる2,000億ユーロ(7年間)に増額し、破壊的イノベーションへの重点的な資金配分を行うことが提言されています。また、欧州イノベーション評議会(EIC)をDARPA型機関へと改革し、官僚主義的な申請プロセスを大幅に簡素化することも求められています。
研究機関の強化
研究機関の競争力強化も重要な課題です。欧州研究評議会(ERC)の基礎研究支援を倍増するとともに、世界クラスの研究者を引きつけるための「EUチェア」ポジションを新設することが提案されています。さらに、優れた研究機関への競争的資金配分を強化することで、研究の質的向上を図ることが目指されています。
スタートアップ支援の強化
革新的企業の成長を促進するため、EU全域で有効な単一のデジタルIDの導入や、知的財産権の統一特許制度を全加盟国で採用することが提言されています。また、中小企業向けの規制負担を軽減し、スケールアップ段階での資金調達支援を拡充することで、新興企業の成長を支援する体制を整えることが求められています。
エネルギー市場改革
エネルギー市場の改革は喫緊の課題とされています。共同調達メカニズムを強化してEUの交渉力を向上させ、エネルギー取引市場の監視を強化して投機的行動を制限することが提案されています。さらに、再生可能エネルギーと原子力の価格を化石燃料から切り離す仕組みを導入することで、エネルギーコストの安定化を図ることが目指されています。
産業支援策の強化
産業競争力の維持・強化に向けて、クリーンテク製造への支援を集中することが提言されています。特にEUが技術的優位性を持つ分野では、国内生産能力の維持が重視されています。また、公共調達における現地調達比率の設定や、国際競争における公平な競争条件の確保も重要な施策として挙げられています。
重要原材料戦略
重要原材料の安定確保に向けた包括的な戦略が示されています。EU重要原材料プラットフォームを創設し、共同調達を促進するとともに、戦略的備蓄をEUレベルで管理する体制を整えることが提案されています。また、同盟国との協力を強化し、G7+重要原材料クラブを創設することで、供給源の多様化を図ることも目指されています。さらに、EU域内での資源開発を加速させるため、許認可手続きの迅速化も進められることになっています。
技術主権の確保
技術面での自律性を高めるため、半導体分野での研究開発支援と製造能力の強化が重視されています。AIインフラの整備を進め、EU企業の競争力を強化することも重要な課題とされています。通信機器分野では、信頼できるEUベンダーを優遇することで、技術主権の確保を目指しています。
実行のための体制整備
これらの改革を効果的に実現するため、EUのガバナンス改革も提言されています。新たな「競争力調整フレームワーク」を創設し、EU予算を戦略的優先事項に集中させることが提案されています。また、規制の簡素化を進め、企業の報告義務を25-50%削減することで、ビジネス環境の改善を図ることも目指されています。さらに、意思決定の迅速化のため、特定多数決制を拡大することも検討されています。
結論:転換点に立つEU
ドラギレポートは、EUが歴史的な転換点に立っていることを示しています。デジタル革命、気候変動、地政学的緊張の高まりという三重の課題に直面する中、「現状維持は選択肢にない」というのが、レポートの核心的なメッセージです。
課題の相互連関性
これらの課題は独立したものではなく、密接に関連し合っています。例えば、エネルギーコストの高騰はデジタル化の進展を妨げ、技術的依存は経済安全保障上のリスクとなっています。そのため、個別の対症療法ではなく、包括的な改革アプローチが必要とされています。
必要な投資規模と期待される効果
レポートによれば、EUの競争力回復には年間約7,500-8,000億ユーロ(GDP比4.4-4.7%)の追加投資が必要とされています。これは第二次世界大戦後のマーシャルプラン(GDP比1-2%)を大きく上回る規模です。しかし、適切に実施されれば、15年以内にGDPを約6%押し上げる効果が期待できます。また、全要素生産性が10年間で2%上昇すれば、必要な財政支出の約3分の1をカバーできると試算されています。
ドラギレポートは、EUが直面する課題の深刻さを明らかにすると同時に、それらを克服するための具体的な道筋を示しています。その実現には、加盟国間の緊密な協力と、従来の政策の枠を超えた統合的なアプローチが不可欠となります。
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